始まりは、ある日の岩場から
友人が会社に遊びにきた時のこと。「ミツオさん、見せたいものがあるんですよ」そう言いながら、興奮気味に尺八をバッグから出すシーンが鮮明に思い出されます。
いつもなにかしらの新しい話題をもってくるので、その時もいつも通り一つの話のネタとして聞き流したのですが、後日、その友人と一緒に山梨の岩場で登っていて、彼はおもむろに尺八を取り出し、吹き出しました。
他のクライマーが彼のもとに寄っていき、尺八を見たり、吹かせてもらっています。せっかくだから私も、とやってみましたが、まったく音が鳴りません。偶然同じ岩場に来ていたミウちゃん(天才)も上手に吹いていたのに...
さて、私はこっそり尺八を売っているお店を聞きましたが、なんとその山を下りた麓。私はそこに立ち寄り、先生のおすすめを譲っていただくこととなりました。
庶民の文化としての「重み」と「軽やかさ」
最初はまったく音が出なかったものの、教則本とYouTubeのおかげで、なんとか吹けるようになりました。情報を漁っているうちに、いろいろなことも知りました。
尺八は700年代に渡来してからの長い歴史、江戸時代から続く流派が現代でも複数あり、昭和の雑多な環境の中で非常に味わい深い文化を築いた楽器だということもわかってきました。
非常に重く、深い歴史ではありつつも、それは常に庶民の文化として存在していました。これがクライミングの文化的な側面と非常によく似ているんですね。尺八を教えてくれた友人とも、よくその話をして笑い合いました。
岩のエッジから体の芯まで響くもの
流派や、曲の歴史を知るにつけ、私は最も瞑想に近いスタイルを好むようになりました。非常に単純だが難しい、味わいの深い曲。曲とは思えないほどに悠長で、ただ1、2音を吹いているだけのようなもの。そういうものが岩のエッジから体の芯にまで響くんですね。
楽器の種類、形、長さや太さも変わってきます。しかしそれは付随的なものであって、本質は音を通して心を無にすること。江戸時代に街角で尺八を吹いた虚無僧と同じ心境に至るわけです。(どんな心境だったかは知りませんが。)しかしそういった古典と呼ばれるような虚無僧が吹いたであろう曲なども、形を変えながら現代までたくさん残っています。
過去と現在を共有する「開拓者」への思慕
岩を登られる方なら、課題を嗜むプロセスにおいて、初登者に思いを馳せたことがあるはずです。たとえホールドの形が変わってしまったとしても、初登者は普遍であり、岩がそこにある限り、開拓の様子を想像することができます。
その課題にトライしてきた数多くのクライマーと感覚を共有することもできる。私がクライミングを愛してやまない理由のひとつです。
私はこうした歴史を肌で感じたり、(断層から)過去を想像することが好きなのかもしれません。そして、過去にそこにいた様々なクライマーたちと同じものを共有しているということが好きなのかもしれません。
もちろん、ミッドナイトライトニングを味わいにヨセミテに行ってもいいでしょう。しかし、1本の尺八を持って岩場にでかけ、ゆったりと開拓者、先輩たちに思いを馳せるというのも、また人として成長させてくれることだと思っています。
(山本)