爽やかな風と共に来る友

爽やかな風と共に来る友

 

弊社アンバサダーの倉上慶大氏が富士山登山中に心肺停止し、そのまま帰らぬ人となりました。どうしようもなくくだらないアイデアを真剣に議論できる私、山本の貴重な友人であり、これから世界のクライミングシーンで人々が驚き興奮する新しい歴史を作っていくはずだったクライマーです。

まだ件より2日しか経っておらず、正直なところまったくもって実感がありません。それでも、さまざまなニュースで取り上げられ、SNSでのみなさんのポストを拝見していて、動揺おさまらず止まらなかった汗も、少しずつ、いやそんなことはありません。ブログを書き始めたらやはりうまくいきませんね。

私はこの40時間ほど、とにかくずっと後悔しています。私にとっては良き友人、良きライバルでありました。彼には言いたいけど言えない話が山ほどありました。いつか話す、彼に誇れるようになったら、ある程度形になったらと思っているうちに、何も伝えられないまま、その機会は失われました。この後悔は一生癒やされることはなく、一生後悔したままです。

あまりに辛いので、東京粉末と倉上慶大の思い出を書き連ねて、良い思い出で埋めて紛らわせようと思って書き始めましたが、すでに数段と心が痛くなってしまいました。体裁もひどい文章でもご勘弁ください。

この際、長くなってしまってもいいですよね。彼との付き合いはそこまで長いわけではなく、はじめて彼と会ったのは、平嶋くんがセットすると聞いて遊びに行った新潟県のRock You!のコンペだったと思います。2010-11年ごろでしょうか。当時サックスにはまっていた僕の噂を聞いたらしく、サックス奏者だった彼はいまと変わらないあの独特の人当たり良すぎる爽やかな風と共に、私におすすめのリードを教えてくれました。まだ大学生だったのかな。その後はうちに泊まりに来たり、ジムに遊びに来てくれたりと親交がありましたが、思えば当時から会えば妄想気味の話をしては真剣に議論していたような気がします。

その後、彼は研究者として関西へ。私は自分のやりたいことのために大きな拠点へとジムを移しまして、思う存分セットにチョークに新しいものを作っては試す日々となりました。いつだったかチョークの話をしていたら、彼が研究開発をしているセラミックとチョークの加工が非常に似てることがわかり、それからというもの、さまざまな試薬の性質とその加工方法、機械の種類や選定など、実に多くの議論に付き合ってもらいました。

ロストアロー社に転職した彼は、スカルパの営業担当ということで私のジムにことあるごとに気にかけてくれ、その度にチョークの試作やテストに付き合わせる日々でした。彼が来た時は店の仕事はすべて放り投げ、今日はもうなにもできませんからスタッフに全て任せます状態になって、店が閉まる夜12時からも店の前で夜中まで議論していたのがついこの間のように感じます。彼との議論は大体がくだらない話からクライミングの思想や動きの根本、業界の歴史と未来、人、感性というようにどんどん抽象度が高くなっていって、先の見えない闇に突っ込んでいきます。最終的にたいていは、まったくこの世は不思議だ、その不思議を感じることが情緒なんだ、ということになってお互いに満足して終わります。そういえば、今は我が家のバイブルになっている、数学は情緒だ、という岡潔の本を教えてくれたのも彼でした。

東京粉末のチョークの歴史はそのほとんどが彼との交流の歴史です。ピュアの改良、ブラックの開発から完成、ブーストの製造プロセスの改良、リアクトの原型となるものや、いろんな液体チョークや得体の知れない固形物、他メーカーのチョークを岩場のさまざまな天候や状況で試験してくれたり、それをレポートにまとめてくれたり、RXとV3ができる頃には彼はもう手の届かないほど次元の高い偉業を成し遂げていて、それでも変わらずにテストをしてくれて定期的にレポートも送ってくれるような、本当に神がかった献身ぶりで、いつも爽やかな風とともに現れる人でした。これは本当のことで、雨が降っていても、雪でも、常に爽やかな風が吹いているのです。

私たちが東京粉末として法人化して独立した同じころ、彼もロストアローから独立してプロクライマーとして生きていくと報告しに来ました。この時、東京粉末としても全面的に彼のサポートをさせてもらうことになり、スポンサー契約をしました。それまではただの友人で、彼にしてもらってきた多くのサポートに対する恩返しがやっとできる、ととても嬉しかったのを覚えています。

その頃は平嶋くんもワールドカップのルートセットで頼りにされるほど、名実ともに世界の最先端で活躍していました。倉上くんをサポートするのが決まった後、それを平嶋くんに報告した時、あの頃誰がこんな状況を想像したんだろうね、と話してくれた平嶋くんのセリフを忘れません。この2人をサポートできることは私にとって人生で最も自慢できることです。

慶大くんが独立してすぐの頃、いつものように会社に遊びにきた彼は目を輝かせて、「どうしてもミツオさんに見せたいものがあったんです」と言って出したのが尺八でした。あぁ、本当にいい思い出です。私は10年ほどディジュリドゥというオーストラリアの民族楽器を趣味で演奏していたし、ちょっと変わった楽器を集めるのが好きなこともあってか、他の人には尺八なんて見せてもいいリアクションを得られなかったのかわかりませんが、その日はずっと彼の尺八の出会いや尺八の良さをずっと興奮して話していたような気がします。そうです、私は完全に影響されてしまって、甲府は昇仙峡の麓にある彼が尺八を習っているお店に訪れて先生の尺八を譲っていただくことになりました。

今でも尺八の文化の深さはまったく計り知れないのですが、思えば世界の無秩序と不思議に情緒を見出すような彼には本当にぴったりの楽器です。楽器というよりは法器という感覚でしょうか。彼にとって尺八は音楽でもあり、クライミングだったんだろうなと思います。そんな尺八は私にとってもとても大切なものになっています。訃報を聞いてから動揺を落ち着けるために尺八を吹いて過ごしました。本当に1音吹くたびに、彼のことを思い出します。いや、性格には彼との会話や、彼に聞かせたい気付き、彼に聞きたい感覚などから、何も考えたくないのにいろんなことが思い出されてしまいます。彼はきっと、充男さん修行が足りないですよ、なんてことは口には出さず、そうして平常心を保とうとすること自体が修行なんですよ、なんて言ってくれるんです。

本当に、身の回りに彼とつながるものが多すぎます。今でも、外に彼の車が泊まって、さわやかな風が窓から入ってくるような気がしてしまいます。近況を話す前から興奮してお互いに話したいことを話し始める。やっぱり今日、このブログを書いてよかったです。彼と過ごす時間は本当に私にとってかけがえのないものです。私には尺八があります。今の彼の音は聞けませんが、それを想像することはできます。常に1歩も2歩も先をいっていて、常に疑問抱き、その先を見て楽しそうにしている。それだけはわかります。

クライミング界はもちろんですが、彼がいなかったら今の私はありません。私はクライミングの才能もなく、体も強くなく、社会にも馴染めなく、自分に正直になれないどうしようもない人間ですが、それでも数ある選択の機会で、リスクをとって、何かを信じて行動できたことは倉上くんの存在がとても大きいのです。彼はいつも私のことを褒めてくれました。それを素直に受け取れたことは一度もないのですが、それでもそれは私にとっては心の支えになりました。

まだまったく受け入れられませんが、これからもきっとそうなのでしょう。この穴が埋まることはありません。後悔し続けることが私の試練なのかもしれません。本当に慶大くんは試練や修行が好きでしたね。教えたい呼吸の本があったのになあ。やっぱりだめですね、くやしくてしょうがありません。

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